nokatachi

2025/11/19 17:41

 

(顔料化作業の記録も含む)

初雪が降る1週間ほど前に昨年に続き、アスパラガスの農作業がひと段落した時期の冬仕事などでお世話になっている吉勝制作所の顔料化作業を手伝いに伺った。今回は、松とクルミの採集からはじまる。

松は煮出す鍋に入るように切り分けていった。だんだん松脂がノコギリに付いて轢く腕が重くなっていく、それを鍋に入れ煮込み終えるとクルミの採集に、車で稲刈りが終わった田んぼを通り抜けて山へ向う。

昼食には、持参したおこわを車内で食べた。これは、山栗と天然キノコで蒸しあげて炙っておいたモノである。塩味が足らなかったこともあり、塩漬けにして米油で漬けた鮎も炙り、おこわの具として加えた。漬けてから3年ほど経過しているが、へしこという郷土の漬物のような風味も感じられた。

一緒に山へ入るのは、約一年ぶりだ。吉田さんが、いつもの山でいつも通りにクルミを採りに向かう後を追う。日中は陽が照り暖かい陽気だったが、陽が傾くにつれ風の冷たさが際立つ。時間はすでに14時を過ぎた。世間で熊のニュースが相次いでいたこともあり、熊とすれ違いわないか話題にしながらの山歩きとなった。

目星のクルミに当たりをつけつつ通り過ぎていき、道を外れた。まず前方から声が向こうへと響いた。小さな峰へ進むと、そこにはムキタケが出ていた。乾燥し始めたムキタケの群れの中から、状態の良いものだけを採った。出始めの食べ頃のムキタケやナメコも少しだけあった。

ハケゴにムキタケを入れ、クルミの木へ戻る。握り拳ほどの太さの幹を切り、両脇に抱え引きずりながら山を下った。車に戻ったら、積めるようにさらに幹を切断し載せていく。

帰りの車内では、同定の話から「採集したキノコを食べるとき、美味しさ以外のことがどうしても気になり、美味しいだけを味わい切れない」という、モノとの切断ができない感覚についての話になった。料理も同じで、美味しい部分だけではなく、その食材を構成する要素すべてが目に入ってしまい、美味しさの芯だけを取り出して感じることが難しくなる。誰かが採ってくれたり料理してくれた場合も、それはそれで別の問題が生まれ単純に味わうことができない。そんな話をしながらコウバに戻り、鍋に入るようにクルミを再び切断した。1日目は、鍋で煮込む工程までで終了した。


二日目。
顔料化するクルミと一緒に採ってきたムキタケで朝に汁物をつくり、冷凍しておいたおこわも持参する。汁物には大根があったので加えた。ムキタケは苦味があるため味醂で整えた。甘さに近い旨味が苦味を包み隠すから動物の脂とも相性が良さそうだった。

前日に煮込んだクルミや松の鍋から汁を取り出す際には、ザルを三重にして濾していく。皮を剥ぎ、身と分ける。作業しやすいよう、椅子・テーブル・バケツを配置してコウバの延長に場所を整えた。身から皮はツルッと剥ける。皮の部分はもう一度煮込み、出がらしの身は除く。こうして1番煮込みと2番煮込みができる。
さらに、70番と20番の布で濾し、同量を合わせて湯煎に移す。汁を入れる樽には、その都度付箋で識別をつける。

1番煮込みの漉し作業はあったが、2番煮込みのグツグツ煮込まれている隣で待ちながらの昼食では、みんなでムキタケ汁とおこわを囲んだ。

温め直して熱くなった鍋底には、皮を剥いたクルミの二股に分かれた出がらしを鍋敷きの代わりにして置いた。出がらしのクルミは白みがかっている。ちなみに松は赤みがかっているようだ。白みがかったクルミの表面はツルツルしているが淡い。捨てるほど大量にある出がらしは、鍋敷を終えた後また捨て場に置いた。しかし、この日、外から来られた方からは、出がらしを鍋敷にしたとき「良いですね」と、声をかけられた。生産現場にある大量の何かが、生産圏から出てモノ化する瞬間だった。

採れたムキタケはほとんど汁物にしたので量が多かったが、作業でお腹も空いていたこともあり箸が進んだ。冷凍していたおこわはレンジで温めたのだが、調理当初はもち米が少し硬かったものの、ラップに包んだまま蒸され温め直されると柔らかくなっていた。これはブナ茶を加えた栗おこわだが、自家製の酸っぱい梅干しと一緒に食べた。

昨年は、信子さんのちりめん山椒おにぎりを頂いたこともあり、今回はおこわを持って伺った。